これまでこのブログでも何度か司馬遼太郎については書いているけれど、私は小学生のころからの司馬遼太郎の読者で、若いころには「竜馬がゆく」を繰り返し読んでいた。司馬遼太郎の魅力はいろいろあるが、何といっても人物描写だろう。あたかも目の前にその人物がいるように感じられる。その人物のどんな親しい友人よりも、その人となりや内に秘めた思いまで分かっているような錯覚に陥ってしまうほど。「竜馬がゆく」も、その典型だろう。
小学5年生のときに一番最初に読んだのは、「関ヶ原」という作品だ。いうまでもなく、天下分け目の関ヶ原の戦いをえがいた小説なのだけれど、実際の戦争のシーンなどはごくわずかで(実際に戦闘は一日で終わったのだから無理もないが)、その戦闘にいたるまでの政治的駆け引きや人間模様が、上巻、中巻、下巻に亘って描かれている。そこから学んだことは少なくないと思っている。
近年、司馬遼太郎の歴史観についてさまざまな論争がある。明治時代を肯定的にみるいっぽうで、昭和初期から太平洋戦争までの日本を否定的にみる捉え方は、明快でもあり、一面的といえばそうなんだとも思う。
確かに、いわゆる明治維新あたりからの近代史についてよく考えることは、現代の日本のあり方に直接つながっているだけに、大切なことだといえるだろう。
坂本龍馬は、イギリスのエージェントであった。イギリスにとっては、日本人は奴隷にするよりは、産業を起こさせて働かせた方がイギリスにとって得になると考えた。しかし、それには日本の武士がじゃまになったので、明治維新によって武士の世を終わらせた。ただし、日本人のプライドに配慮して、イギリスの工作は一切表には出さず、あたかも日本人が自発的に革命を起こしたように見せかけた、という内容のことを、「龍馬の黒幕」で加治将一が指摘している。
そして、江戸幕府を倒して明治維新のために奔走したとされる、いわゆる志士は、テロリストであった、というのが、「明治維新という過ち」(著:原田伊織)の主張だ。
これもKindle Unlimitedで読める。
心理学者の岸田秀によれば、吉田松陰は、欧米諸国の圧迫と威嚇を受けて存亡の危機に立たされた日本の「精神分裂の結果、外的自己から切り離された内的自己の立場をもっとも純粋な形で代表している思想家」であるという(「ものぐさ精神分析」より)。
「外的現実への適応は外的自己の役割であるから、その外的自己から切り離された内的自己は、現実との接触を失い、現実感覚を喪失し、退行を惹き起こし、小児的、誇大妄想的になってゆく」のだが、この日本の内的自己の暴走は幕末期の攘夷で終わらず、真珠湾攻撃へと続き、現代でもその分裂状態は解消されていないというのが岸田秀の主張だ。
歴史観には、「これで正解」ということはないのだろうけれど、さまざまな視点から考えていかなければならないし、それが今をどう捉えるか、さらに未来を考える上でも大切なのだろう。
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