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2024年11月24日日曜日

周防灘に面した秋穂の浦と、長州藩の歴史

今は山口市の周防灘に面したあたりにある秋穂(あいお)湾は、日本で初めて車海老の養殖を始めたところとだという。波が静かな瀬戸内の、しかも穏やかな湾内の天然の良港といわれるところだが、この日は風が強く、やや波立っていた。















その昔、この秋穂の浦へ藁で蛇の形をつくり、牛の生皮をはいで一緒に沈めると、大暴風になるといわれていた。江戸時代後期の天保のころ、豊作だった年に、藩の産物役所の役人たちは、凶作になって米価がたかくならなければ、それまで買いこんだ米や産物で損をする。そこで、役人たちは相談の上、皮革を夜明け前に数十人に護衛させて運搬しているのを農民が発見し、それをきっかけに、長州藩の専売制反対の一揆がおこり、さらに藩全体に天保大一揆の動きがひろがった。

ここで興味深いのは、農民のほうが藩の役人を監視していたということだ。当時日本の他の地域では、武士階級とそれ以外の庶民の間は隔絶していたはずだが、長州藩においては階級間の距離が比較的近く、民衆の力が藩政に与える影響力がそれなりにあったということなのだろう。

この天保年間からしばらくの後、幕末の倒幕戦の出発点となった四境戦争大島口の戦いにおいても、武士ではない町民や農民等の出身者が大半を占める奇兵隊をはじめとする諸隊や、周防大島の島民が大きな役割を果たしている。それが幕末にいたる長州藩の特徴といえるだろう。


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