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2015年5月14日木曜日

「動」と「静」 走ることの二面性

走ること=跳ぶこと、そして、その「跳ぶ」瞬間に、身体はバランスを取るために脳―神経―筋肉を稼働させる。だからスローペースのジョギングでも、その指示系統である脳はスピード感をもって稼働することになる。それが今まで走ってきた実感だ。走ることの「動」の面だ。
その感覚は、ある程度のスピードでクルマを走らせる時の感覚にある意味で近い。絶対的なスピードはまったく違うのだが、走っている本人の主観としては、ある道路をクルマで走ることと、自分の脚で走ることは割と近い感覚なのだ。
だから、移動手段としてはともかく、走る楽しみという面では、自分の脚で走ることはクルマを走らせる楽しみの代償行為となり得ると感じ始めていた。さらに言えば、路面の感触を踏みしめながら走れること、ウィンドスクリーン越しではなくより直接的に空気を感じたり、という点では、自分の脚で走ることのほうがむしろ感動的だと思うようになってきた。

しかしながら、ここ1週間以上続いている風邪と高熱が治りきらず、まだ走りを再開できない・・・

京都・北嵯峨に、直指庵というお寺がある。四季折々の彩りを見せる庭を眺められる本堂に、「想い出草」ノートが置かれてあり、訪れる人々がその想いをつづっていくという。
誰かがアドバイスをくれるわけでも、助けてくれるわけでもない。でも、それぞれが新たに生きる力を得て帰っていく。人生の節目節目に、しばしば訪れる人もいるという。
人は自ら気付き、立ち直っていく力を持っている。



走ることは、自分にとって、この「想い出草」ノートのような媒体にもなっている。
具体的に何かを書いたり、しゃべったりするわけではない。走りながら頭をよぎるのは、もっと漠然としたイメージだけだったりすることも多い。それでも走り続けることによって、頭が自然に整理されていく。自分の中で複雑にからんでいたものごとを程良く片付け、新たに踏み出していく力をもらえたりする。走ることの「静」の面だ。

人は自ら立ち直る力をもっている。ただ、それを発動させる何らかの媒体は時に必要なのだ。

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