能や狂言といった伝統芸能では、「型」が大切だ。代々受け継がれてきた伝統の型を絶やすことなく、次代に継承していくということが欠かせない。先日、有名な狂言師の野村萬斎のことをテレビで見たが、幼い時から父親である二世野村万作から「型」をたたきこまれて育ち、それを今度は長男に受け継いでいる、その稽古は、当然のことながら厳しい。
その一方で印象的なのは、父親の野村万作が、老成してからもなお一つの演目に試行錯誤を繰り返している姿だった。また、野村萬斎は、若い時に型通りに演じた演目を再度演じる際に、父親の許しを得て囃子の趣向を大きく変えた。「型」を徹底的にたたきこまれた上にはじめてオリジナリティが生まれるというのが印象的だ。
私はかつてアメリカに語学留学していた時、通っていた大学の正規のクラスに参加させてもらえる機会に恵まれ、「パフォーマンス・アート」のクラスを取った。講義というよりは、実技主体で、生徒が与えられたテーマに従って構想し、実際にパフォーマンスを行い、それをお互いに議論しあうというような授業だった。正統的な科目というよりは、キワモノ的扱いで、初めての授業の帰りに「Oh, did you survive from Performance Art Class?(パフォーマンスアートから生還したの?)」なんて冗談で言われたぐらいだった。
なぜそんなクラスを選んだのかと言うと、非言語的なパフォーマンスによる表現であれば、自分の乏しい語学力でも対等の土俵に立てるのではないか、という計算があったのと、伝統的、定番的な「型」というものとは正反対にあるアートフォームではないかと考えたのだ。「型」のように身体で覚えた、体得したものではなく、頭で考えたもの、コンセプト重視で、当然の結果として、表現の洗練よりは、刺激性、衝撃性のほうが評価される。当時の私にとっては、そのほうがおもしろいと思っていたのだ。音楽であればジャズが一番面白かった。インプロビゼーション(即興演奏)の面白さがない音楽には魅力を感じられなかった。
しかし、ジャズであっても、現実にはクリシェ(手癖)から発想されたフレーズのほうが多いし、そうでなければ聴き手にもなかなか理解されない。そして、そのクリシェはどこから来るかといえば、現実には先人のアドリブフレーズをコピーして、それを体得するまで練習して、その上にその人独特の味わいとか、風合いが加わっているものであることが多いのだ。
そういう観点からすると、ジャズと能、狂言は結構近いものがある。
「型」がないからと言って、「なんでもあり」というわけにはいかない。
ある日のパフォーマンス・アートの授業でのこと、クラスメートの一人の白人の男子学生が、粘土で乳房のような形を二つつくってきて、それをひたすら愛撫する、というパフォーマンスを見せた。みんなくすくす笑いながら鑑賞し、終わった後で、いつものようにみんなで批評しあうのだが、クラスメート達の反応は悲惨だった。性愛とか、エロスというものも、人間のもつ情動の一つであり、そのパフォーマンスを通して何らかのアーティスティックなものごとを表現するということはもちろんありである。しかし、その日のかれのパフォーマンスは、そのアーティスティックな「何か」に決定的に欠けていた。ただのポルノグラフィにすぎないじゃないか、というのがクラスメートほぼ全員の見解だった。かわいそうに、彼は二度と授業に現れなかった。
「型」を徹底的に排除したインプロビゼーションを追求している音楽家として、例えばデレク・ベイリーなんかがいる。そこまで極端に行かなくても、瞬発的なひらめきに満ちた(と思えた)ミュージシャンばかりが、若いころは魅力的に思えていた。しかし、「型」をもったアートフォームというのも面白いと最近は思えてきた。音楽でいえばブルースなんかもワンパターンの極みで、同じようなフレーズをどの曲でも、しかも延々と弾き続ける。でもいいブルースは、それをいつまででも聴いていたいと感じてしまうのだ。それは、「型」を徹底的に身体にたたきこむという鍛錬が、身体感覚を研ぎ澄ませたところで生まれるパフォーマンスだからなのではないかと思っている。
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