先日も紹介した、竹村公太郎『日本史の謎は「地形」で解ける』には、東京の中心ともいえる官公庁街からほど近い、千代田区にある溜池交差点が、かつてダム湖の下であった、ということが書かれている。
たまたま近くにいく機会があったので、溜池交差点に行ってみた。六本木通りと外堀通りが交わる交差点から、霞ヶ関方向を見ると、確かに登り勾配になっている。しかし他の三方は見る限り平らで、かつてため池であったという実感はない。
この溜池は、徳川家康が豊臣秀吉から関東への転封を命じられ、当時寒村のようであった江戸を巨大都市への大改造をするにあたり、江戸市民の水利を確保するために造ったダムだという。虎ノ門に堰堤がつくられて、赤坂一帯がダム湖となった。江戸城からこれほど近い場所に、上水として使われた溜池が存在したというのは非常に興味深い。
溜池は江戸時代にも一部が埋め立てられたが、明治になってから本格的に埋め立てられ、1939年には水路もなくなり、普通の市街地となった。ただ、今でも大雨の時は溜池交差点近くは浸水しやすい場所になっているという。
『日本史の謎は「地形」で解ける』にはこう書かれている。
「もし、虎ノ門堰堤が存在し、溜池が赤坂一帯に広がっていたら、人々は日々、命の水を肌で感じ取っていただろう。溜池の水質を悪化させることは自分自身の生命を傷つけることであり、21世紀の今、山奥のダムで貯水池の森林や水質が守られていることへの想像力が養われただろう。」
身近な場所から溜池がなくなったことで、自分たちの生命を支えているインフラへの意識がなくなってしまう。そういったことは東京都民に限ったことではなく、近代化が進み、充実したインフラに支えられて生活している多くの日本人に共通した意識と言えるのではないだろうか。
東京都民ならぬ田舎暮らしの私も同じことで、職場と住居の往復ばかりの日常の中で、生活を支えてくれるインフラに意識をめぐらすことはほとんどなかった。それでも、最近はランニングのために外に出て、近所のいろんな道を走りまわるようになると、普段使っている道路がどういうふうになっているか、川や水路がどうなっているか、そんなところに少しは目が行くようになった。
東京赤坂にあった溜池は、当時の浮世絵や、幕末明治の時期の写真でも偲ぶことができるようだ。
溜池交差点から、霞ヶ関方向を望む
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