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2014年12月22日月曜日

つながれた犬

早朝のランニングでよく通りかかる家に、犬が繋がれている。私が通りかかるたびに毎回必ず吠えかかろうとして、繋がれた鎖のためにひきとめられる。毎回、首輪がめり込んで、痛そうである。学習するという能力がないのだろうか?飼い主のことは憶えているはずだし、犬だってある程度の記憶力、学習能力はあるはずだとおもうのだが、人間のようなわけにはいかないのだろう。

私がこの繋がれた犬だったら、と考えてみる。たとえ不審なランナーを威嚇する責務を果たさなければならないとしても、もし自分だったら繋がれた鎖の長さを憶えておいて、痛い思いをしないように、鎖に引き止められる寸前で止まるようにするだろう。

動物には「時間」というものがなく、時間がないから「記憶」もない。だから過去の記憶から学習することもできないと思われる。実は人間も、かつてはそうだったのではないか、ということが、「あわいの力(安田登 著)」に書かれている。古代中国の殷の時代に、羌族と呼ばれる人々が、生贄として捧げられるために「飼われて」いたという。それはおそらく数百年続いていた。今の私達の感覚からすれば、殷によって捕えられ、生かされている中で、一緒にいる仲間がいつのまにか生け贄となっていなくなる、という経験を繰り返していれば、そのうち自分達もそうなるのではないか、と気づいて、逃げるなり反乱を起こすなりしそうなものだが、なかなかそうならなかった。それは、当時の羌族の人々はおそらく「時間」の感覚がなかったのではないか。時間という感覚を生み出すのは「心」であり、「心」は文字と関係がある、というのが、この本の中での主張である。だからこそ、統治の手段として、教育を受けさせない、識字率を低いままにしておく、というのは統治の手段として有効だったのだ。

人は動物などとは比べ物にならない程の智慧を持っている、というか、持つことが可能である。しかしその智慧は、教育と学習によって開発されないと発揮できない、あるいは開発された範囲でしか発揮されない、という良い方もできるだろう。その智慧を開発していく道筋が、人類の歴史だったということは言えるだろう。しかし、今の人類が直面している様々な問題を考える時、私達の智慧は、果たしてどの程度開発されたといえるのだろうか、ということを考えざるを得ない。

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