pinterest

2014年1月13日月曜日

日本語の国際的な地位について思うこと その1

年末に、MOOCsという、大学の講義をオンライン配信する仕組みにからめて、学問のグローバル化促進と英語優位の促進について書いたが、今のところ日本は、大学まで含めて高等教育のかなりのレベルまで、母国語である日本語で学べる状態にある。そのことについて考えてみたい。

(以前のエントリー:オンライン教育・MOOCsとグローバル化)

日本語が今までそのような一定の地位というか存在感を保ち得たのには、二つの理由があると考えられる。まず一つは、話者人口の多さだ。日本の人口は急激に減少傾向に転じているとはいえ、今のところ1億数千万のレベルにある。これだけの人口が生活に使っている言語であるため、少なくともその言語は生活言語としては存続する。

もう一つ、高等教育レベルまで使われる言語としての地位を守ってきたこと、これは世界を見回すと決して簡単なことではない。世界には数多く、母国語が生活用言語としては存続しつつも高等教育や学問、出版等ではほとんど使われない国がある。そういった国では、日常生活は昔から使ってきた母国語でできるが、勉強をするとか知的労働をする際には例えば英語であったり仏語であったり、植民地であった国なら旧宗主国の言語を使わざるを得なかったりする。これは必ずしも発展途上国に限らず、ヨーロッパ地域の国であっても、小国であったり、話者人口が少ない言語であれば、それに近い状況になっているところもある。

日本語が少なくとも今のところそうなっていないのは、明治維新前後から欧米の文明が急速に日本に入ってきた時、科学、技術、学術のあらゆる分野の文献を翻訳し、専門用語にいたるまで訳語をつくった先人の功績が非常に大きいかったのではないか。外国語の素養とともに、漢語の素養があった福沢諭吉、夏目漱石等多くの先人が、漢語を用いて数多くの訳語をつくった。その訳語の多くが中国でも使われているときく。そういった翻訳の努力によって、日本は文化的植民地になることを免れたのだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿