昨日、「感動」について書いたが、少し補足したい。「感動」というものは、損得勘定からは生まれない。おのれの損得を超えたところに生じる感情だからこそ、貴重だと思っている。
現実の世界では、損得勘定なしには生きられない。働くことは他人の利益のためになると同時に、自分もそこから利益を得ないことには、生活ができないのが資本主義経済の現実だ。しかし、「経済」という言葉は、漢語では「経世済民」の略語でもある。「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」の意だという。「民をすくう」の「民」の中に、社会的、経済的弱者が含まれる以上は、単なる損得勘定を超えた、何らかの社会正義がなければ成り立たない。弱肉強食の世界しかできないだろう。
ごく大まかに言って、世間の大多数の人々は、日々の生活を何とかするのが精いっぱい、赤の他人を思いやったり、社会正義に想いを馳せる余裕はないかもしれない。しかし、何かで人に喜ばれるとうれしいと感じるし、少なくとも自分に損害が及ばない範囲でなら、世の中に貢献することもやぶさかではない、というぐらいの想いは持っているのではないだろうか。そういった想いのかけらもなく、自分のためなら他人がどうなっても構わない、という人はそう多くないのではないだろうか。
だからこそ、大多数の人々の心の中にある(と思われる)、損得を超えた感動を感じられる心が大切だと思うのだ。
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