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2015年8月4日火曜日

翻訳の功罪

日本は歴史上、どこの国の植民地にもならずに独立を保ってきたことになっているし、固有の言語を失ったこともないことになっているが、言語についていえば、古代における漢字の流入、そして明治期以降の西洋言語の流入があった。

漢字との格闘については、「国民の歴史」(西尾幹二著)の中で論じられている。漢字の使用を受入れながらも、日本語を温存し、自分たちに都合の良いように漢字を使う漢字仮名交じり文を発明し、文化的植民地となることを免れた。

そして時代が下って幕末明治維新の頃、西洋の技術・文明が大量に日本に流入し、同時にそれまでの日本になかったさまざまな概念が西洋語で入ってきたが、当時の日本人はそれをそのまま西洋語で使うのではなく、いちいち日本語の訳語をつくった。そのことによって、日本人は西洋言語を習得しなくても、かなりの程度まで学問や仕事ができるようになった。そして、日本語のある程度の地位保全ができたのだ。それをしなかった多くの国々では、もともと持っていた言語は廃れていったり、生活用の言語としては存続したとしても、西洋言語を習得しなければ学問も文化的な仕事もできなくなり、その言語の国際的な地位は低下することになったのだから、それを防いだ先人の功績は計り知れない。しかもその日本人が翻訳した漢語の多くは中国等でも使われることになった。

その結果、多くの日本人にとっては英語を使うことは重要なことではないという現実にある。
一方で、日本語だけである程度までは「世界」のことが分かるような、あるいは「分かった」と思えるような環境ができあがってはいるものの、日本語を通して見ている世界は、勝手な解釈にもとづいた「日本語環境の中の箱庭仮想現実」なのではないか、という不安が常にある。かつて日本に漢字が入ってきたときに、勝手な訓読みで漢字を使いまわしたように。

日本語の地位を守っていくことは、日本固有の文化を維持していくためにも不可欠だが、それのみに安住することなく、他言語を通して「本当の」世界を理解していくことも大切なことだ。

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