先週書いた、司馬遼太郎の書いていた話についてさらに考えたい。
「幕末の奔走家たちが集まって協議をし、議論をし、密談をするときは、止宿さきが隣同士でも書簡を往復させたという」という話である。
日本語の会話が協議や議論に向かないとすれば、これは交渉事においては不利だ。正確な議論をするためにいちいち書面にする手間がかかるとすれば、物事をスピーディーに進めることができない。論理的に処理したい局面に情緒がからんでしまうとすれば、なおさらだ。
日本語と英語という二つの言語は、一応相互に翻訳可能だ。英和・和英辞典などどこにでもあるし、翻訳ができる人材も掃いて捨てるほどにいるだろう。しかし、英語で話された会話を日本語に訳すと、かなり上手に翻訳したとしても、日本語の会話として不自然になることがかなり多い。「こんなこと日本語で話したりしないよな~」と思うような会話になってしまう。外国語で書かれた小説を日本語に訳した翻訳文学は、どう読んでも翻訳調としか思えない。逆もまた然りで、日本語で普通に話しているような会話を英語に訳すと、恐らく意味不明、あるいは意味をなさない単語の羅列、としか読めないようなものになってしまうのではないか。
「日本を捨てて、日本を知った」(林秀彦)という本に、以下のように端的に書かれている。
(以下引用)
西欧式会話では、朝の散歩の途上隣人とすれ違って「きょうはいい天気になる」と言うのも広義の自説開陳の「発言」だから、当然ながら有利性を保つための理論が見え隠れしなければならない。「なぜならば、今朝のラジオでもそう言っていたよ」というふうに。
そもそも白人たちの会話には、耳障りなほど「ビコーズ」という単語が挿入される。自分がなにかを話している最中、相手がまだ「ホワイ?」とも訊かない前から、先回りするように、「なぜかと言えば―」と自らの話の接ぎ穂にするのである。つまり話し手は、常に聞き手に対して、理論武装を固めている感覚である。(引用終わり)
これは面白いと思った。なぜなら(笑)、アメリカ生活が長い私のある知人は、確かに「なぜなら」「なぜかというと」を連発してロジックを重ねる話し方をしばしばするのだ。そして彼は仕事ができる人なのだ。ビジネスで成果を上げようとすれば、やはりロジックを重ねるしかない。
幕末において活躍した人々は大量の書簡を残しており、司馬遼太郎はそれに徹底して当たるところから綿密に人物像を練っている。話し言葉によるよりも書き言葉によって物事が進んだのだとすれば、それは後世にとってはむしろ役に立つともいえる。
ついでながら、林秀彦氏は司馬遼太郎がかなりお好きなようである。
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