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2014年1月20日月曜日

狩猟民を征伐し農耕民を守った武士

日本人は農耕民族だと言われるが、稲作をはじめた弥生人の時代以前には、世界の多くの地域と同様に狩猟民だった。そして、西日本から稲作が東日本、北日本に向かって徐々に広がっていくにつれ、狩猟民は追いつめられていった。

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狩猟民を征伐するために朝廷に任命されて派遣されたのが、いわゆる「征夷大将軍」だったわけで、『日本史の謎は「地形」で解ける(竹村公太郎)』にはこう書かれている。

「夷」という漢字を分解すると「一」と「弓」と「人」となる。これは「手を一杯広げて弓を引いている人」つまり「狩猟する人」を意味するという。

「征夷大将軍」は武家政権が成立するとともに武家のトップ、つまり政権の実質的なトップが任命されるようになり、農耕民を守ることによって、武士による統治は12世紀末の鎌倉時代から江戸幕府が終焉を迎える19世紀後半まで続くことになった。

同じく、『日本史の謎は「地形」で解ける』には、日本の農耕について次のように記述している。

日本列島の稲作は個人では立ちゆかず、集団の力で田を作り、水を引き込み、洪水を防ぎ、収穫をする。その営みの中では個人のわがままは許されない。米のため人々は否が応でも協力しなければならなかった。

「武士道」の定義は時代によって、捉え方によっていろいろあるだろうが、特に長期間の安定政権を実現した江戸時代には、武士道は農耕社会の秩序を守っていくための、官僚としての武士の道徳律となった。
新渡戸稲造が英語で書いた「武士道」は、武士の価値観を欧米社会に知らしめ、政治家等を含め多くの人々に感銘を与えた。日本社会を成立させる道徳律であると同時に、名誉を守る為には生命をかけ、たとえ肉体は死するとも「名」を残すという生き方は、「地の倉に積むことなく天の倉に積め」と説く聖書の教えに通じるともいえる。新渡戸稲造はクリスチャンでもあった。

『日本史の謎は「地形」で解ける』は、地形を見ることでこれまでの歴史の「定説」がひっくり返るという、非常に興味深い視点で書かれている。特に「征夷大将軍」について書かれた12章は印象的だ。

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