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2022年4月20日水曜日

高泊開作:長州藩の幕末・明治維新での活躍を下支えした干拓事業

 このあいだまでは伊豆に住んでいたのだけれど、先月から山口県の山陽小野田市に単身赴任することになった。伊豆半島の歴史が面白くなってきたところだったので(今年の大河ドラマにも関わっているし)、少々残念な気もするが、山口県にも興味深い歴史は、もちろんたくさんある。いうまでもなく、幕末から明治維新で活躍した長州藩だ。

長州藩の藩主、毛利氏は、戦国時代には山陽道、山陰道8か国、つまり現在の中国地方全体を領有していたが、関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れた西軍の総大将に据えられていたため領地を大幅に削減され、取りつぶしはまぬがれたものの、防長2国、今の山口県だけが残されることになった。

大幅な収入減で厳しい財政状態となり、多くの家臣が他家に仕官したり、農民になったりした。この財政を立て直すために力を入れたのが開作(干拓)事業だった。今の山陽小野田市で行われた高泊開作は、江戸時代初期に行われた大規模な干拓事業だ。


遠浅の海に堤防を築き、堤防の内側の水を抜き取り、干上がらせて陸地化し、農地として利用する。そのためにつくられたのがこの水門だ。

浜五挺唐樋

堤防の外側、つまり海側から見たところ。




これが水門の構造の説明
潮がひいた時に水門が開いて内側の水を海に流し、潮が満ちたときは水圧で水門が閉まり海水が中に入るのを止める仕組みだ。



堤防の内側はこうなっている。家並みの向こうに山が見えるが、開作以前はその山のところまでずっと海だったことになる。



この高泊開作をはじめとして、長州藩は多くの開作事業によって、江戸時代を通じて表向きの石高をはるかに上回る収入を上げることに成功し、この財政的基盤が後に幕末・明治維新での長州藩の活躍を下支えすることになった。この大事業を成し遂げた先人の偉業に敬意を表するとともに、農業に欠かすことのできない豊富な灌漑用水源など、自然の恵みにも感謝を忘れてはいけない。


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