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2015年3月5日木曜日

八切止夫の歴史観―関ヶ原の戦いは、そうだったのか!

奇抜な歴史観で知られる歴史小説家、八切止夫の「庶民日本史辞典」という本を、さる所で見る機会があった。今となってはなかなか手に入らない本なのかもしれない。「日本意外史」という著書もある八切止夫の説はなかなか興味深い。

天下分け目の関ヶ原の戦いは、豊臣秀吉の死後、天下を狙う徳川家康に接近した武断派と、それに対抗して秀吉の遺児・秀頼を守ろうとした石田三成ら文治派の戦いだったというのが一般的な解釈だが、実は仏教派―石田三成と反仏教―原住民方との戦いだったのだという。

石田三成は確かに寺の小僧だったところを豊臣秀吉に見いだされた。仏教派は織田信長時代に冷遇されていたところを豊臣秀吉に贈賄することで地位を保全されていたのだが、秀吉の死後どうなるか分からないのでお金を集めて石田三成を支えたのだという。石田三成が文官であったというのは多分に意図的な話で、要害の地である佐和山を秀吉から任された「隠し武将」であったのだという。

「武断派と文治派の争い」という構図は司馬遼太郎の小説「関ヶ原」でも、石田三成の正義感の強い潔癖な性格と徳川家康の老獪さとの対比とともに、ストーリーの主軸をなしていた。私にとっては小学生の頃から愛読して親しんできたストーリーなのだが、これはあくまで小説的な視点であって、本来の歴史的背景は別のところにあったということかもしれない。

もう一つ意外な歴史が載っていた。明治時代の征韓論は、鎖国を続ける朝鮮に武力をもって開国させようという主張だったということになっているが、実は朝鮮半島に、明治維新後の日本の国体にとって不都合な記載がされた碑文があり、それを何が何でも撤去しようとしてのことだったらしい。結局征韓論は実現しなかったが、その碑文はその後、日清・日露・第二次大戦と日本軍が大陸に渡った時期に撤去されたということだ。

他にも興味深い説が多く載っている。奇抜な歴史観ではあるが、確かにそうだったかもしれない、少なくとも一面の真理かもしれないと思わせる、興味深い歴史観だ。

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