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2015年1月12日月曜日

自動運転車が実現したら・・・

先日、東京までクルマで往復する機会があった。クルマは職場のサクシード。トヨタのライトバン型の商用車で、ある程度荷物を積載することを前提としたセッティングのためか、空荷だと乗り心地は少し跳ね気味になるが、3人ぐらい乗車すると悪くない。運転操作が楽なように設計されていて、余計な気を使わなくて済む。仕事で使うクルマとしては非常に良くできていると思う。行き帰りとも目立った渋滞もなく、快適なドライブとなった。

さて、今回のように何事もなく順調なドライブではあっても、やはり運転しなければいけないことに変わりはない。運転をアシストするいろいろな安全装置が装備されるようになってきているが、完全な自動運転にでもならない限り、ドライバーは運転という作業からは解放されない。
これは、社会の経済効率ということを考えてみると、運転という作業のために膨大な時間が使われているわけで、ということはそれだけ人的コストが投入されているということになる。そこで、自動車メーカーのみならず、Googleが開発を進めている自動運転車が実現すれば、運転作業から解放された時間を他の生産的な作業に振り向けることができる。

その他にも、自動運転が実現されれば、例えば車間距離をつめることによってより多くの車両を渋滞なしに効率よく流せること等、さまざまなメリットがある。それができるのも、クルマをより正確に、他の車両等と連携して運行できるからに他ならない。安全性ということを考えてみると、普通免許を持っている程度の練度のドライバーが運転するクルマが公道を走りまわっている現代社会は危険きわまりないとも言える。ちょっとした不注意や操作ミスで、人命に関わる重大な事故を起こしうるようなクルマという代物を、特別に運転技術が優れているわけではない、素人のドライバーが乗りまわしているような社会よりは、自動運転によって危険なクルマを正確にコントロールする社会のほうが合理的ともいえる。

もちろん、自動運転の実現に向けて技術的な面のみならず、法整備等、課題はたくさんある。しかし、少なくとも単調な運転になる高速道路だけでも自動運転が実現されれば、社会にもたらされるものは大きいだろう。

少し前の記事だが、人の運転スタイルに対する自動運転車の運転スタイルの特徴が興味深い。
かなりのレベルに達していると思われる自動運転技術だが、人間の運転と違う部分は出てくる。危険回避は、ロジックだけでは割り切れない、感覚的な部分も大きい。それをもっと近づけていくのか、あるいはある程度の違いはあるものとして、それと共存する方法をみつけるのか。

クルマの運転という作業に、人は本当に様々な能力を使っていることが分かる。クルマの運転は、危険があるがゆえに人の能力を高めている側面もあると思う。技術の進歩によって、より安全に、より便利になれば人の能力は退化する。使わなくなった能力はすぐに退化するのだ。例えばトランスミッションがマニュアルミッションからトルクコンバータ式のオートマチック、さらにCVTへと「進化」していくにつれて、加速するという作業はより単純になり、アクセルペダルはON・OFFスイッチになり、運転感覚はゲーム感覚になった。せまく曲がりくねった道を飛ばすヨーロッパ人は概して運転がうまいが、広い道ばかり運転して、だだっ広いパーキングロットに駐車するカリフォルニアでは、誰もまっすぐにクルマを駐車しない。自動運転が実用化されて、高速道路は自動運転にゆだねるのが当たり前の時代になったとしたら、高速運転時の微妙な修正舵や、スムーズなレーンチェンジなどできないドライバーが当たり前になってしまうのかもしれない。

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