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2024年7月4日木曜日

恵比寿ヶ鼻造船所(世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」)

 司馬遼太郎の小説「世に棲む日々」には、高杉晋作が「船乗りになる」と言いだして、長州藩がつくった軍艦教授所に入ることを志願したというくだりがある。

ペリー来航に衝撃を受けた江戸幕府は、海防強化のために諸藩に対して禁止していた大船の建造を解禁し、長州藩が桂小五郎の尽力によって洋式船の建造に取り掛かったのが、この恵比寿ヶ鼻造船所だ。ここではじめに建造されたスクーナー船が「丙辰丸」で、沼津市戸田で造られた「ヘダ号」と同じ君沢形スクーナーだ。(画像はWikipediaより)


長州藩最初の洋式軍艦として使用され、のちに長州藩士と水戸藩士の密約締結の舞台にもなった。

高杉晋作はこの丙辰丸に乗り込んだが、精密な技術習得が性格的に向いておらず、おまけにひどい船酔いにさいなまれて懲りてしまったという。

ヘダ号について(以前のエントリー):ロシア人一行のために日本ではじめてつくられた洋式帆船


長州藩が西洋文明に対する開明性を持っていたことは、長州ファイブの派遣にも表れているし、洋式船の建造に力を注いだことは桂小五郎の先見性を示している。

現代の情報社会とは違い、情報や知識へのアクセスが極端に限られた時代であったことを考えれば驚くべきことだろう。いわゆる海禁政策、鎖国というものが江戸幕府がはじめたたかだか300年たらずの政策であることは現代では常識だが、当時その知識はほとんど知られていなかったらしい。だからこそ、長州藩の長井雅楽という重役が「航海遠略策」の中でそれを指摘して開国論をとなえたとき、尊王攘夷論者の反発を招き、のちに切腹を命じられるに至った。


造船所があった場所は、堤防と後ろの山に囲まれた、今は空き地のようになっている場所だ。発掘調査が進められている。








堤防の向こうは日本海がひろがっている。










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