東京画廊という現代美術画廊のオーナーである著者による異色のアート論。
世界の経済発展の中心が移るにつれてアートの市場の中心も移っていく。今は中国だが、中国の先がない、という問題がある。そしてもう一つ、日本も経済成長によってアートに手を出したが、評価の定まった作品を高値でつかまされただけで、市場の中心はさっさと中国に行ってしまった。
それはなぜか。日本人は自分で「感じ」、「考える」ことをしない。
日本人は評価の定まったものにしか手を出さない。これは、「芸術力」の磨きかた(林望 著)でも述べられていることだが、日本人が自分の評価基準を持っていないということ、要するに芸術を楽しんでいないということなんだろう。
現代美術においては、作者もその作品の意味を「説明」できる必要がある。そして、そのためには作品が見る人とコミュニケーションできるものでないと売れない。
ここまで読んで、以前、アメリカ留学中に、大学のパフォーマンスアートの授業に参加していたときのことを思い出した。
床を這いまわったり、ベンチをたたいてみたり、傍からみればわけのわからない行動をしてみせる。それで「何か」を表現しようと試みる。他の学生達も同じようなものだった。
以前のエントリー(型とパフォーマンス)で、型がないことにフォーカスして書いたのだが、もう一つ言えることは、型がないがゆえに、「型」として他人と共有している判断基準に頼れない。だから、説明する必要が出てくる。パフォーマンスをして見せた後のディスカッションでいかに説明できるかが大切なのだ。
現代美術もそうなんだな、と思った。現代美術は、作品が工芸的に見事だとか美しい、といった要素がないことが多い。だからモノそのものの価値というよりは、モノをどう解釈するのか、どういう物語を具現化しているのか、また、美術の歴史の文脈の中でどういう意味をもっているのか、そこに値段がつく。
要はアートというのはコンセプトに価値があるということになるのか。何らかのコンセプトを持たせて、作品として、あるいはパフォーマンスとして存在させること。そういう視点で考えれば、現代美術や、あるいはパフォーマンスアートに取り組むことは現実の社会の中で生きていく上で意味があることと言えるのだろう。
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