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2014年8月21日木曜日

スパニッシュ・キー

車での移動のほんのひと時、マイルス・デイヴィスのアルバム「ビッチェズ・ブリュー」の3曲目、「スパニッシュ・キー」をかけた。いつも思うことだが、エレクトリックマイルスと呼ばれるこの時期の演奏は、イマジネーションの宝庫だ。個々のソリストがアドリブをとる、というよりは、全体で同時に即興を行っているグループ・インプロヴィゼーションの舞台の上では、何よりも音楽的な発想力のみが要求されているのだろう、と想像できる。それが聴く方のイマジネーションをかき立てるのかもしれない。

ここのところ、ジャズの即興演奏や、マイルス・デイヴィスのことばかり書いているが、ジャズの即興演奏というのは、確かに聴いてすぐに分かるものではない。私にとっては、もう30年近く聴き続けているが、「分かる」と自信をもって言えるわけではもちろんない。いまだに聴くたびに新しい発見がある。だから興味が尽きない。

「分からない」けど聴き続ける、ということに意味があると思うのだ。最近は能などに興味を持っているが、能も分からない。今から観はじめるとしても、死ぬまでに「分かる」と言えるようになるのかどうか、はなはだあやしい(能も、かなり即興性があるらしい)。

林望の「芸術力の磨きかた」には、誰にでもある芸術欲は、他人の作ったものを鑑賞するだけでは、決して満たされないという。確かにそうかもしれない。自ら表現者の立場に立ってみることでしか分からないこともある。一般人には、いちいち自分でやってみるような余裕はない、と言いたくもなるが、それでも、ちょっとかじってみるだけでも、そのかじった断片の経験を、想像で膨らませることはできる。

芸術は理論理屈ではない、イマジネーションの世界だ。絵なら絵で、一枚の絵をじっくり観ていると、想像力をかき立てられる。心の中でひとりでに音が聴こえてきたりする。音楽であったら、無心に聴いているうちに、逆に何かの情景が浮かんできたりする。ジャズの即興演奏の、ナマで、無機質な音に思いもよらないイメージをかき立てられることもある。理論理屈ではない、と書いたが、その理屈によってイマジネーションがかき立てられるのなら、それもありだろう。

エレクトリック・マイルスの時期の演奏は、混沌としたグループインプロヴィゼーションの中で一人ひとりのプレイヤーがどういうふうに機能しているのかなかなか捉えきれない。それでも、「スパニッシュ・キー」においても、躍動的なビートが連続する上で、ふたりのキーボードと、ジョン・マクラフリンのギターが絡み合って、グループ全体のサウンドが、一つの意思をもっているかのように、ストーリーというか、ドラマを展開させ、白熱していくのが興味深い。

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