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2013年11月6日水曜日

偶然とは思えないような形で・・・

偶然とは思えないような形で、いろんなことがつながってきている。
体力の衰えを感じてこの春頃から筋力トレーニングをはじめたが、走ることは当初考えていなかったにも関わらず、結局走りだしてしまい、身体に過大な負担をかけず効率よく走る方法を模索していくうちに、ナンバ走り・古武術に行きついて、日本古来の所作としての「能」に辿り着いた。能には以前から少なからず興味はあった。能は現在能と夢幻能の二種類に大きく分類され、生きている人間のみが登場す現在能に対し、夢幻能というのは「異界」のストーリーであり、霊的な存在が主人公となる。それも、何らかの経緯でこの世に想いを残してしまい、そのために今なお霊界をさまよっている霊のストーリーであるという。


安田登「ワキから見る能世界」(松岡正剛の千夜千冊より)

(以下引用)
さて、ここが重要なところだが、実は、能の本質はこのことを問うところ、「負ける」とはどういうことかを問うところから始まっていると言っていい。実際にも、人生がうまくいかなかったという事情に絡んだ者たちを主人公にした物語を、多くの能は主題にしてきたのである。(中略)能は、人生の深淵を覗くとは何かということを問うたドラマなのである。そこにひそむ「負」をもって「再生」を誓うドラマなのだ。(引用ここまで)

さて、ここで連想したのが、岸田秀の史的唯幻論だ。

引用すると、

ところで「人間はいろいろ罪深い、不安な、恥ずかしい、あるいは屈辱的な経験をせざるを得ないが、そうした経験は自我の物語にとって好ましくなく、できれば、そのようなことは起こらなかったと思いたい種類のものである。
 そこで人間は現実の経験を隠蔽し、偽りの自我の物語をつくることになる。この偽りの物語でうまくやってゆければ好都合であるが、そうは問屋が卸さない。偽りの物語にもとづいて行動すれば、それが偽りであることを知っている人たちとの関係、それが偽りであることを知っている自分の別の面との関係、現実との関係が障害され、当人は精神的に病むことになる。このメカニズムは、個人の場合も、民族や国家などの集団の場合も同じである。個人も集団も何らかの不都合な経験を隠蔽しているから、多かれ少なかれ病んでいる。狂い方はそれぞれ異なるが、日本もアメリカもフランスもロシアもみんな狂っている。(引用ここまで)

ネガティブな経験を隠ぺいし、偽りのストーリーに生きていこうとする。このことは個人の心理としては容易に理解できることだが、それが民族や国家等の集団の場合も同じだとするならば、そしてそれが歴史の動きを左右する重要な要因ともなってしまうとするならば、それは「異界」に往った者の情念、この世に残した想いのエネルギーを想定する必要があるのではないか。


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