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2017年12月3日日曜日

伝統を守るのが美しいのか、純粋に高みを目指すのが美しいのか

日馬富士の貴ノ岩にたいする暴行問題についていろいろなことが言われているので、相撲ファンでもないが気になってしまう。

相撲協会への協力を頑なに拒み孤立しているように伝えられる貴乃花親方は、自らが現役時代につらぬいた「ガチンコ」を信ずるがゆえの態度であるようだ。一方で、「ガチンコ」ではない「出來山」とか「人情相撲」というのも、昔から講談や落語、歌舞伎の題材にもなり、その「阿吽の呼吸」こそが伝統美だという見方もある。そもそも力士が本当にガチンコで15日間連続で相撲をとれば、怪我人続出で大相撲は興行として成り立たなくなる、ともいう。事実、ガチンコで通した貴乃花は怪我に苦しみ休場が続いた。
これは一筋縄ではいかない。相撲ファンですらない私には何ともいえない。

かつてF-1ドライバーのアイルトン・セナは、自らの速さを証明するためには手段を選ばなかった。そこが独自の美学をもっていたチームメイトのアラン・プロストと対立する要因だったが、少なくとも当時日本のファンの多くの目には、セナの「純粋さ」のほうが魅力的に映った。しかし、セナ以降のスタードライバーには、なぜかダーティーなイメージがつきまとってしまうのはなぜだろうか。

うんと歴史をさかのぼって、天才的な戦術家であった源義経は、当時の武士の美学を無視し、奇襲攻撃やなりふり構わない手段で勝ちを重ねたが、驕り高ぶる平家を倒してスターとなった。

伝統を守るのが美しいのか、純粋に高みを目指すのが美しいのか、どちらが感動につながるのか、これは見る人の価値観次第というしかない。やはり一筋縄ではいかない。

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