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2017年11月27日月曜日

「従僕の目に英雄なし」は重責に追い詰められるから

「従僕の目に英雄なし」ということわざがある。

どんなに英雄的な、歴史に残るような役割を果たした人物であっても、身近に仕える者にとっては人間的欠点に満ちたやっかいな主人に過ぎない、ということ。

小学生のころから、司馬遼太郎の小説を読んできたのだけど、司馬遼太郎が描く人物像は、それがいわゆる歴史上の英雄であっても、人間的な癖や欠点をもった一人の人間として描かれていることが多く、それがその人物を生き生きと臨場感をもって感じさせる、小説としての魅力の一つであり、それを読んでいた当時の私は、実際の人間社会というものもそんなものなんだろう、ぐらいに考えたものだ。

哲学者ヘーゲルは、「従僕の目に英雄なし」ということばに続けて、「それは英雄が英雄でないからでなく,従僕が従僕だからだ」と言っているそうだ。従僕は「英雄」としての視点で見ることができない。あくまで従僕である自分自身の視点でしか主人をみることができない。彼の視点からみれば、主人も自分と同様、あるいは自分以下の人格にしか見えなくなってしまうのだ。

さらに、こういう見方はできないだろうか。
かつてのホンダF-1の監督、桜井淑敏が、対談集「セナ」の中でこう語っている。
「例えば人を見るのでも、そこで起きている現象、例えばその人が吐く言葉とか、考え方とか、信条とか、その辺を何とか追求しようとする。というのは、そこで正確に捕らえておかないと、人間というのは、タイトな状態に入ってくると、心の中に潜んでいる思わぬ部分が出てくる。人間というのはギリギリではない状態では、基本的にはみんないい人なんだよ。ようするにギリギリになった時にとる行為が、本当のその人の行為でね。だから、ギリギリの時にどう行為をとるかというのを、そこを何とか探ろうとしていたということなんだ。」

「英雄」と呼ばれるようになるのは、歴史的に重要な役割を果たした人物が、後世そう呼ばれることになる。つまり、英雄と呼ばれる人間は、何らかの重責を担わされることがほとんどなのだ。そういう人物の多くは、その重責を担わされるまでは「いい人」だったのかもしれない。しかし、重大な役割を担わされ、追い詰められることによって、人格のネガティブな面が露になる。

人格に欠点のない人物など、そうそういるものではない。そして、欠点のある人間であっても、天がその人間に重大な役割を与えることがある。その欠点が、追い詰められることによって表に現れ、特に身近な人々の目には際立って見えてしまう。

「いい人」に見える人は、まだまだ余裕があるからなのかもしれない。
極限状態にあってもいい人でいられる人は本当に余程の人格者といえるのだろうけれど、そういう人はめったにいない、というのが現実ではないだろうか。

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