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2024年6月20日木曜日

高杉晋作の功山寺挙兵~下関市長府

 高杉晋作は理念よりも行動の人だった。この下関市長府の功山寺で挙兵するに至るまでの彼の行動は目まぐるしい。藩に罰せられたり、一転してイギリス、フランス、アメリカ、オランダの4か国と交渉にあたる藩の全権大使に任じられたり、こんな働きができたのは、一つには彼の家が元々長州藩内での家柄が高く、高杉のやることには藩の上士といえども一目置かざるをえなかったということもあったのではないか。そこは先日書いた赤禰武人との違いだ。

さらに言えば、俗論派との融和を目指した赤禰に対して、自らも上士である高杉は上士の実情を知っているだけに、もはやそれと手を組むに値しないという認識もあったのではないか。

奇兵隊はじめ諸隊の隊士は高杉の暴発に乗らなかった。赤禰のことを「大島郡の土百姓ではないか」と言ったという件、いろんな感情がからんで、うまく理念でしゃべれなかったのかもしれない。松下村塾では先輩で、説得力に富んだ男だったという赤禰に対する微妙なコンプレックスもあったのかも。

そんなこんなで諸隊はついて来ず、高杉はほぼ一人で駆け出した形だったのにもかかわらず、それがいつの間にか大勢力になって、俗論派の藩政府が瓦解してしまったのは、民衆の支持という面も大きかったようだから、そのあたりも興味深い。





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